特集

たくさんの人に京都の本当の魅力を知ってほしい。そんな想いから、Why KYOTO? の特集は生まれています。わたしたちは京都で過ごしながら、日々京都の魅力を実感しています。京料理、お茶席、町家、祭、習慣、京ことば….。随所に感じられる四季折々の楽しみ方やおもてなしの心。十人十色の旅がある中で、それが最大限素晴らしい時間になることを願って、古き良き京都、そしていつ訪れてもどこか新しい京都の魅力を、これからも発信していきます。WEB版でも本誌の特集を公開していますので、ぜひお楽しみください。

京都の街を歩くと、風流な佇まいの木造建築が多く見られる。そこには驚くほど、細やかな日本人の知恵と精神が反映されている。長きにわたり京都の人の暮らしを支えている京町家、その構造や見所を覗いてみよう。 18世紀の京都の商人の息遣いが宿る京町家 「杉本家住宅」は、1743年に創業した呉服商「奈良屋」の店舗兼住まい。現在は呉服商としての役目は終え、大規模な京町家の貴重な建築遺構として保存・公開されている(建物は国の重要文化財、庭園は国の名勝に指定)。 「京町家には、日本人の心のあり方がよく表れていると思います」。そう話すのは杉本節子さん。「杉本家住宅」で生まれ育ち、保存会の理事として住宅の保存に尽力している。「四季が明確に分かれている日本、特に京都では、自然とともに暮らしがあることをとても大切にします。それは芸術の面を見ても明らかですね。住まいに関しても同様です。京町家は、木と土で出来ています。これらはいずれも自然のもの。さらに、例えばこの杉本家住宅では居住部分の周囲は庭になっており、障子を開ければいつでも自然の風を感じることができます」。自然を暮らしに取り込み、また自然を感じていたいという日本人の精神が住まいにも表れていると杉本さんは言う。 「一方で、自然のものは必ず朽ちていきます。それらを修繕しながら暮らすのですが、どのように繕うか。利便性を追求して変えてしまうことも可能ですが、昔の京都の人びとはそれをしませんでした。手間をかけ、丁寧に修繕したのです。手間をかけた分のぬくもりを感じるような気がしませんか」。 ...

機能性やデザインの美しさから、海外からも注目を集める京町家。それに魅せられた一人のアメリカ人がいる。町家改修の建築家として、現代の生活と伝統を融合する彼の目に、京町家はどう映るのか。 京都に住まうジェフリー・ムーサスさんは、町家建築に魅せられたニューヨーク生まれの建築家だ。今から約20年前、マサチューセッツ工科大学(MIT)の大学院で建築を学んでいた頃、授業のスライドでみた京町家の街並みに興味を持った。 来日後、日本の現代建築を代表する二つの事務所などを経て、たどり着いたのは「中村外二工務店」。茶室などに用いられる数寄屋建築を手がける京都の有名な工務店だ。幸運なことにそこで働くチャンスを得たジェフリーさんは、もう一つの幸運に出会う。築90年の町家だ。ジェフリーさんが「京都の両親」と慕う家族が、使っていない京町家を直して住んでもいい、と提供してくれたのだ。長い間使われていなかったその町家は、まるでお化け屋敷。工務店の大工さんたちに、片言の日本語で尋ねながら、町家の修復を行った。「あの経験が、日本でのキャリアの大きな土台となりました」とジェフリーさんは語る。   その後、ジェフリーさんは自身の事務所を立ち上げ、京町家建築を知る建築家として活躍している。 「京町家の魅力は、曖昧な空間を多く抱えているところです。例えば縁側。壁がないので家の中ではないが、屋根があるので外とも言い切れない。このような場所があるからこそ、自然とともに暮らすことができる。これは日本人固有の考えですね」。ジェフリーさんは続けていう。「京町家には、世界中どこを探してもないような驚くほどたくさんの技や文化が家屋に息づいてます。そんな京町家も最近は減少傾向にあると危惧されていますが、わたしは、京町家は形を変えながら今後も残っていくと思っています。かつては、町人の住居でしたが、近年ではカフェや店舗として利用され、最近ではゲストハウスとしても多く利用されています。1200年の年月をかけて蓄積されてきた文化ですから、受け継がれるべきだと思います」。 和紙の壁・照明:堀木エリ子さん作 デザイン:Design...

京町家とは、実は明確な定義があるものではないが、京都の町人たちの住まいである。登場は8世紀、京都が日本の首都となり、中国・西安を模した平安京が作られたのが794年のことだ。通りが縦横に走る条坊制が取られたため、通りに対して整然と家が並ぶようになる。以降、1200年にわたって都として栄えた京都は、18世紀に入ると商業の町となり、人口も増えた。そういった時代の流れとともに、1)通りに面して店舗スペースを持ち、2)奥に住居スペースを確保するというスタイルが増えていった。細長いその形から「うなぎの寝床」と呼ばれる。現在、京都で見ることのできる町家の多くは、築100〜120年のものだ。 A:店(見世)庭 「店庭」は公的な空間で、商売上の客や近所の用件はここで済ませることが多い。 B:走り庭 現在の台所にあたり、家族や使用人が日常的に使うプライベートな場所。高い吹き抜けの天井には、煙を出すための高窓や天窓があり、採光の役割もある。「店庭」と「走り庭」を合わせて「通り庭」と呼ぶ。 C:店の間 通りに面した部屋のことで、商売のための店舗スペース。かつての京都では、職住一体での暮らしがスタンダードであった。 D:座敷 大切な客人を通す部屋で、家の最も奥にある。床の間に花を飾るなど、季節ごとの室礼を施す。店の間と同じく、日本の伝統的な床材である畳が敷き詰められているため、履物を脱いで上がる。 E:縁側(えんがわ) 庭に面する部屋から、張り出して設けられた廊下のような場所。京都の夏は暑く、縁側は涼を取るにも適している。 ■格子(こうし) 中からは外の様子が分かり、外からは目隠しになる機能的なもの。上部を切り止って光を多く取り入れ、着物の柄などがよく見えるようにしたり、多様なデザインがある。 ■虫籠窓(むしこまど) 京町家特有の低い二階にある塗り壁の窓。姿形が「虫籠」のようなので、この名がついたと言われる。二階の通風や採光のために設けられ、古いものほど小さい場合が多い。 ■駒寄せ(こまよせ) 馬に乗って来た客が、手綱をくくりとめたものの名残と言われる。人馬の侵入を防ぐために設けられたという説もある。排他的な雰囲気が外観に威厳と格調を与える。 ■犬矢来(いぬやらい) 雨の跳ね返りや犬のマーキング(小便)から家の壁を保護するように巡らされた、竹製の囲い。シンプルな曲線美が見事で、町家にやわらかい表情をつける。 ■ばったり床几 町家の軒先の壁に仕組まれた、上げ下げができる臨時の床几。商品の陳列棚の役割を果たしたり、夕涼みに腰掛けたり、近所の人との社交場にもなる。 ■簾(すだれ) 風通しがよく、京都の蒸し暑い夏を涼しげに演出してくれる。日除けや目隠しの役割もあり、視覚からも涼しさをもたらす。 ■暖簾(のれん) 風格ある老舗のものから若い人向けの店まで、色・素材ともにさまざま。町家の顔であり、季節によって使い分けされるなど、町家めぐりの楽しみにもなる。 ■鍾馗さん(しょうきさん) 屋根の上に据えられている飾り瓦。唐に由来するという、魔除けの神として信仰されている。威嚇するような鋭い目つきのものが多いが、なかには柔和なものもある。 ■網代天井(あじろてんじょう) うすく裂いた葦や檜などを編んだ天井のことで、茶室や数寄屋風の座敷などでよく見られる。職人の技と手間に見ごたえあり。 ■隠し階段 狭い京町家ではスペースを確保するため、急勾配の階段が多く、押し入れの空間を使って階段にすることが多かった。押し入れの襖に中に隠れているため隠し階段と言われる。 ■通り庭 表から裏口まで続く土間のこと。表側の「店庭」と、プライベートな空間の「走り庭」に分かれる。奥行きのある京町家の、風の通り道でもある。 ■座敷 大切な客をもてなす奥の間で、庭に面している。広い座敷の場合は二間続きになっていて、違い棚や欄間など、それぞれの木材にも趣向が凝らされている。 ...

白磁に描かれた金彩が物語を紡ぐ マットな白磁に金色で描かれた、繊細かつ躍動感溢れる模様。模様には、絵本の1ページのようにメッセージが込められていて、並べると一片のストーリーが紡がれていく。そんな「読む器」をコンセプトにした器ブランド[SIONE]を手がけているのは、陶板画作家の河原尚子さん。河原さんは京都で約350年続く茶陶の窯元に生まれたが、茶の湯の文化は日本の限られた人のみが嗜む文化になっていることを、もったいなく感じていた。大学卒業後に有田焼で知られる佐賀県の陶板画作家に師事し、その経験を活かして「自分だからできるプロダクト」を追及した結果生まれたのが、茶の湯のように客をもてなす日本の文化を「読む器」に込めた[SIONE]であった。作品は最初に河原さんがストーリーを作り、シーンを器の形と模様などのデザインで表現。その後、型の成形から本焼きまでを有田や波佐見など日本の選りすぐりの産地で、絵付けと焼成を京都で行っている。   最近ではさらに活動の幅を広げ、京友禅とのコラボレーションシリーズ[GRACE]を発表。京友禅は京都の伝統工芸品の1つで、着物などで知られる染めの技法。その友禅職人が色を確認する過程で生まれるドット模様を、そのままデザインに昇華させた。伝統の技と心を取り入れながら、同時に伝統にとらわれないモノ作り。それが[SIONE]の大きな魅力である。 ■河原尚子 陶板画作家、[SIONE]ブランドデザイナー、Springshow...

  伝統的な和食や茶の湯との関わりが深い京都では、個性豊かな器がいつも暮らしのそばにある。 陶芸(焼きもの)とは、特徴ある土を混ぜて調整した素地土を、手やろくろなどの道具を用いて造形。成形後は、釉(うわぐすり)と呼ばれるガラス質の膜で器をコーティングしたり、絵付けを施し、その後高温の窯で焼成し陶磁器などを作る技術のこと。 原料となる素地土の性質は地域により異なり産地ごとに特徴のある焼き物が生まれた。京都で作られたものは「京焼」といわれるが、他の産地のように独特な様式や技法に特化しない。華麗で繊細な色絵をはじめ、多様な技法を用いた様々な種類の焼き物がある。その理由の一つに京都は1200年間、日本の都であり文化の中心を担ってきたため、全国からあらゆる焼き物の技術や作品が流れ込み、幅広い技術や感覚が研ぎすまされてきたからだといわれている。 日本文化が独自な発展を遂げたように焼き物も西洋と大きく異なる点が興味深い。まず材質の違い。洋食器は磁器で作られ、陶石と呼ばれる「石の粉」と粘土を合わせたものが多いが、対する和食器は主に粘土を材料に使う陶器が多い。和食器は手にもち直接口にあてて使用するので、質感や温かみに配慮したことが理由といえる。さらに異なる点は、揃え方だ。西洋のティーカップはセットの統一感があるが、日本では一つひとつ違うデザインのものを揃えることがある。これは亭主が客人に合わせて器を選ぶという茶道のおもてなしの心が根底にあるようだ。また、偶然できた歪みや不揃い、釉のにじみ具合にも日本人は美を感じ、使うにつれて角がとれて丸みをおび、じわじわと味が出てくる。これらが何とも言えない日本の焼き物のおもしろさであり、魅力である。   焼きものから生まれる一期一会 日本の焼き物に魅せられた一人の青年が約40年前に海を渡り来日した。アメリカ人陶芸家の利茶土ミルグリムさんだ。陶芸と出合ったのは大学1年の時。土を使って自由に造形できることに魅力を感じた。京都に住んだことがある教授2人から陶芸について教わり日本の美意識にも触れたことで、自分の肌で日本を知りたいと強く思うようになったという。 1977年、念願叶い来日。2ヶ月間基礎の日本語を学んだ後、ヒッチハイクで日本全国の窯元を巡った。その中で、16.7の茶陶(意味:茶の湯に用いる陶器のこと)に、最も惹かれた。その後、京都、萩焼(山口県)、備前焼(岡山県)、美濃焼(岐阜県)の窯元で修業を重ね、1985年より京都府日吉町にて築窯を果たした。 利茶土さんが一番好きな言葉は「一期一会」。37年間交流が続く茶道の裏千家の大宗匠をはじめ、多くの人たちとの出会いがあった。その“繋がり”を大切にしながら、伝統を受け継ぎつつ大胆で独特な感性が光る作品を長年生み出してきた。2つの祖国をもつ者として茶陶の文化を世界に広め貢献するため、「何百年たっても使い続けてもらえる作品」を目指しているという。そんな利茶土さんに、海外から京都を訪れる人が陶芸を楽しむための秘訣を聞いた。 「気軽に焼き物に触れたい人は、ぜひ美味な和食店に足を運でほしい。そうすれば自ずと多くの器が目にできる。一流の料理人は献立を考える時に料理を盛る器も含めて考えます。8〜10品登場しても、同じ器は使われません。五感をフル活用して、異文化を吸収し一期一会の旅を楽しんでほしいですね。」 [caption...

美しい文様が描かれている着物。手法は、「織り」と「染め」に大別される。「織り」とは、染めた糸を用意し文様にあわせて糸を変えながら布を織ること。反物として仕上がった布を縫って着物の形に仕上げる。一方、「染め」とは、白い布に文様を直接染める方法だ。 「友禅染」とは、日本で最も代表的な染めの技法。友禅染よりも歴史の長い「織り」の場合、いうなればドットで描くコンピュータグラフィクスに近く、経糸と緯糸という直線を精密に組み合わせることで文様が描かれる。無論、高度な技術により繊細な曲線も自在に描くが、友禅染はさらに優雅な曲線を使った文様を染めることを可能にした技法だ。下絵の輪郭線に極めて細く糊を置き、その内側を絵筆などで染める。この技法により、曲線は人の手によって描かれるわけだからより優美に、また糊が仕切りの役目を成すので隣り合う色同士がにじむこともない。ゆえにより精彩に文様を描くことができる。 友禅染の誕生は江戸・元禄時代(1688-1704)。京都・祇園に居を構えていた扇面絵師・宮崎友禅斎によって考案されたと伝えられる。京都で生まれた友禅染は、その後各地に伝わったが、なかでも「京友禅」は、その華やかさ、優美さで世界から高い評価を受けている。   手描友禅の工程 手描友禅は、多くの専門職人による分業制を採る。まずは、図案の作製(写真1)。古典的なものから斬新なものまで柄行きは様々。4分の1のサイズの紙に描く。次に下絵(写真2)。着物の形に縫った白い生地に図案を写す。図案を拡大してそのまま写すのではなく、職人が図案を見ながら生地にフリーハンドで描く。着姿を考えながら柄の大きさ、位置を決める。この時「青花」とよばれる花から取った液で描く。青花の栽培は近年減少しており、とても貴重なものだ。下絵を描き終えたら、着物を一旦ほどく。そして、下絵の輪郭線に沿って糊を置いていく(写真3)。 ひとつの反物からつくられる着物は、両端で色の濃さに差があってはならない。柄の部分を糊で伏せた後、地染の工程では、13~15メートルもある生地を刷毛を使って、素早く均一に染める。(写真4) そして彩色(写真5)。友禅では「色を挿す」と表現し、手描友禅の工程の中で最も技術を要する工程である。彩色を終えた生地は蒸して色を定着させ、水で洗う。友禅染が終わった生地に、刺繍(写真6)などで装飾を施して完成となる。   余白の美をまとう 京都・三条烏丸の交差点を少し西に入ったところに建つ[千總]は、創業1555年の京友禅の老舗。日本の伝統的な文様を描いた着物を中心に、その技術やデザイン力を生かした様々なアイテムを世に送り出している。 「着物を着ている女性は本当に美しいですね」。そう話すのは、ジョン・ベンソンさん。1977年に英会話講師としてアメリカから来日。それ以来、京都に暮らしている。「ええ、日本らしい美しさですね」と笑顔で答えるのは[千總]の社長を務める仲田保司さん。旧知の間柄だというふたりに、友禅染の着物について話を聞いた。 ベンソンさんに、着物の印象を尋ねると、「着物をじっくり見てみると、文様のない空間も美しい。日本では“間”といいますが、間の取り方、美しさが日本的だなと感じます」。ベンソンさんの言う「間」の美は、日本文化に多く見られる特徴だ。「間」とは、「余白」とも置き換えられるかもしれない。それは何かがかけている状態ではなく、あえて創った空間のこと。茶道に華道にも、ひいては武道にも当てはまる。「アメリカ人であるジョンが、模様のない部分を美しい“間”として認識してくれたことは大変嬉しいですし、興味深い感覚ですね」。仲田さんはいう。   仲田さんはこうも話してくれた。「友禅染は、扇子の絵師だった宮崎友禅斎が始めた手法だと言われていますが、私はそうは思いません。元禄時代、友禅斎の絵は非常に人気がありました。ですから、彼の絵を扇子だけでなく、他のアイテムにも使いたいと考えた人がいただろうということは想像にたやすい。彼は一絵師ではなく、アートディレクターのような人だったのではないか、と私は思うのです」。友禅斎の絵を着物にするとき、縦横の糸が織りなす直線を駆使するのではなく、直接描いたらいいのではないか。そう考えた職人が試行錯誤しているうちに、輪郭線に糊を置き、マスキングをすることを思いついたのではないか、と仲田さんは話す。「つまり、友禅染は、友禅斎による染め、ではなく、友禅斎の絵を染めるための技法だったのではないかと思うのです。その時代のトレンドを強く意識するアート集団がきっといたのでしょう」。 現在も友禅染には多くの職人が携わる。[千總]は本来、その職人たちを束ね、着物という商品を作り上げる立場だが、現在はそれだけにとどまらない。例えば友禅染のデザインや技術を活かして、他のファッションアイテムをプロデュースするなど、現代にあったプロデュースを実践し、20年以上前からパリコレクションにも登場するなど、世界で高い評価を受けている。   ■仲田保司 株式会社千總の代表取締役社長。大学在学中から起業家として活動し、1997年に千總入社。伝統ある企業としての特色を打ち出しつつ、時代に合わせた現実的な改革を続けている。 ■John...

エキサイティングな体験を支える船頭   英単語を随所に混ぜた、リズミカルなトークで旅人たちを和ませる森田さんは、船頭になって20年のベテラン。約120人が在籍する保津川下りの船頭、その特殊な仕事について教えてくれた。「父親もおじいちゃんもみんな船頭、5代目まで続く家もあるぐらい、保津川周辺の人たちの間で代々受け継がれてきた仕事です。25年ほど前から一般公募が始まり、縁のなかった僕は自分で応募しました。それまで新人船頭になるのは、船頭の息子や兄弟、親戚、知人などがほとんど。船頭の推薦がないと就けない仕事でした。」現在でも、なりたい誰もが応募できるわけではなく、応募できるのは亀岡市・南丹市八木町に住んでいる、もしくは移住予定のある人に限られている。「この土地に暮らす人でないといけない理由は、自然を相手にする仕事だから。台風や大雨で川の航路が塞がれた時、すぐに駆けつけて作業できることが必須条件。保津川の自然を見守り、その厳しさとも共生する仕事なんです。」 保津川が仕事場である森田さん、15年ほど前から川の環境保全活動にも積極的に取り組んでいる。「ゴミ掃除を定例的にしたり、ほかの団体に呼びかけたり。美しい川を守りたい一心で活動を続けているうちに、企業や行政の協力を得られるようになってきました。」観光都市だといっても、まだまだ環境への意識は完璧だといえない嵐山。安全で楽しい川下り体験を提供する一方、保津川の環境保全を訴えていくことも船頭の仕事なのだ。 春や秋の忙しい時期には、1日100隻が出動する人気ぶり。下っては電車で戻って…を繰り返し、1日4回船上することもある体力、気力ともにハードな船頭の仕事。基本は、舵とり、櫂ひき、竿さし役の3人1組(水量によって4・5人になることもある)。「チームワークがとても重要なので、1年間は同じメンバーで船を操作します。せまい渓谷を縫うように進む繊細な技術など、日本特有の文化を広く伝えていきたいです。」 船頭の役割(イラスト上部から) ●舵とり:船の後方で、船の進路を決める ●櫂ひき:櫂という道具で船を前進させる ●竿さし:川底に長い竿をさして前進させる、方向の調整もする ▼森田孝義(船頭) 25歳の時に、船頭の道へ。学生時代にラガーマンとして活躍した体力と明るい人柄で仲間から慕われる、若手船頭のリーダー。「NPOプロジェクト保津川」の理事を務めるなど、環境活動にも情熱を注ぐ。 一隻の船に込める職人の情熱    全長12m20cm、強化プラスチックで基礎を形づくり、杉の木の枠を合わせた30人乗りのシンプルな船。1隻にかかる製造日数は45日〜50日、新調するのは1年に1〜2隻。広い工房で黙々と、船と向き合う山内さんは元船頭だったが、先輩大工の引退を機に転身した。「昭和45年ごろまで木造でしたが、今は強化プラスチックという優れた素材を使っています。船底の厚みは、わずか1cm3mm。水流で湾曲するように厚すぎはダメ、薄すぎると割れて浸水するのでこれもダメ。ベストな厚みや角度で船を仕上げます。」現場を知る船頭の要望にも耳を傾け、船や櫂を一から作る。山内さんの集中力は、安全に嵐山までお客さんを運んでほしいという気持ちによって保たれている。 ▼山内博(船大工) 亀岡生まれ、亀岡育ち。もともと船頭だったが、8年前から船大工になる。今までの船大工が作ってきた船の構造を観察し、ほとんど独学で船づくりの技術を身につけた。夏の暑さ、冬の寒さを愛犬・ぎんちゃんが癒してくれるそう。 ...

京都市の西隣に位置する亀岡を出発し、嵐山までの約16km、約2時間かけて自然の中を舟で進む保津川下り。春は桜、秋は紅葉、冬は雪景色、そして今なら、樹々の緑が爽やかな夏の船旅が楽しめる。寺社仏閣だけじゃない、京都の魅力が発見できる。 ゆるやかな流れあり、水しぶきをあげる激しい流れあり。船頭さんの見事な竿さばきによって安全に、渓谷を進む保津川下り。保津川とは、京都府の丹波地方・亀岡を起点に保津川渓谷を経て、嵐山へと流れる桂川の別名。保津町という町の名前にちなんで、保津川と呼ばれるようになった。 次々と現れる大小の岩の間を通り抜けていく、保津川下りが開始されたのは、1895年頃。実はそれまでの保津川は、京都や大阪に物資を運ぶ水路として活用されていた。1606年、水運の父と呼ばれている角倉了以が、木材・穀物・薪炭など丹波地方の生産物を京都へ送るため、産業用の水路を整備。戦後しばらくは活用されていたが、1899年に開通した鉄道路線、さらにトラック輸送の発達によって、荷船を使った運送は消滅。水運の役割を終えた保津川下りは、保津川渓谷の美しさを鑑賞するための、観光舟下りと形を変えた。   亀岡市保津町にある保津川下りの乗船場までは、JRや車で行くこともできるが、トロッコ列車を利用するプランが定番人気。トロッコ嵯峨駅からトロッコ列車で25分ほどかけてトロッコ亀岡駅へ。そこからバスや馬車を利用して、保津川下り乗船場へ向かおう。後は保頭川下りを悠々と楽しんでいるうち、嵐山に戻ってくる。日本の皇族をはじめ、ルーマニア皇太子、イギリス皇太子など諸外国のVIPも体験された由緒ある保津川下り。きっと、かけがえのない夏の思い出になるだろう。   見所満載のコースと船頭のホスピタリティに感動 快晴に恵まれたある日、保津川下りに初挑戦したのは、故郷のアフリカを離れて世界中を旅した後、京都にたどり着いたデリルさん。嵐山の近くで英会話教室を運営し、休日は郊外に出かける自然派だ。「カヌーや釣りなど水辺の遊びが好きで保津峡あたりに来たことは何度もあるのですが、保津川下りは体験したことがなかったので、とても楽しみです。」 船頭・森田さんのトークに微笑みながら、いざ保津川下りスタート。ギーギーという櫂ひきの音をBGMに、船はスイスイ進んでいく。ライオンや蛙など動物に見える岩、岩の同じ箇所に竿をさしたことでできた「竿の跡」、人力で船を引き上げていた時代に岩に擦れてできた「綱の跡」などポイント説明を聞くことで、保津川下りの歴史にも触れながら楽しめる。またタイミングが良ければ、トロッコ列車が走る様子に遭遇することもあり、列車の乗客と手を振り合う時間に心が和む。「春には桜が咲き、夏には鮎が釣れる。2億5千年前の地層があったり、可愛らしい鴨を発見したり…船に乗っている間にどんどん景色が変わって、とても面白かった。     また景色とともに、デリルさんの印象に残ったのが、船頭さんたちのホスピタリティ。「とても日本人的、こんなにお客さんに合わせて漕いでくれる船頭さん、海外にはいないよ。船頭さんたちがお客さまに喜んでもらうために、いろいろ配慮しているのがとてもわかりました。」川下りの終盤には、イカ焼きやおでんなどを船の上で販売する売店船が横付けする。「お酒やお団子、いろいろあって楽しい。京都というと、どうしてもお寺のイメージがあるけれど、毎日お寺観光では飽きてしまうでしょ。感動の多い保津川下り、友人みんなにおすすめしたいです。」   船が到着する下流の茶屋にて、船頭の森田さんと会話が弾むデリルさん。 ■DERYL...

シンプルで美しい抹茶は体にも心にもやさしい いまでは世界中で愛されている抹茶。日本における茶の歴史は抹茶から始まった。茶葉をそのまま体に取り入れる抹茶はヘルシーな飲み物。ビタミン類やミネラル類、食物繊維なども豊富に含まれており、健康促進や美容面での効果もあると言われている。 抹茶は、鮮やかな深緑色のものが上質で新鮮である。この美しい状態を保つためには湿気の遮断や遮光に気をつけ、低温の場所で保管しよう。様々な種類がある中で、おすすめは京都の宇治抹茶。抹茶の中でも上質であると不動の地位を誇る。 また、抹茶には濃茶といって濃度の濃いものもあるが、これは練るような感覚。一方で一般的に普及しているのが薄茶といって誰でも手軽に点てられる。 京都に来たら、抹茶を飲んであなた好みを見つけよう。 日本独自の文化「茶の湯」を完成させた千利休 千利休(1522-1591)とは、茶の湯(侘び茶)を完成させた人物。生まれは、現在の大阪の商家で、茶人となってからは当時の天下人・豊臣秀吉に仕えた。それまでの茶は、いわゆる喫茶で、豪華な部屋や道具で賑やかに楽しむものであったが、利休が提唱した侘び茶は極限まで装飾を排除した日本的な不足の美を追求したもの。その後、3つの流派に別れて現在も受け継がれている。 茶道に書かせない10の道具 ■亭主側の道具 茶の湯には、たくさんの道具が使われるが、最低限のものを紹介しよう。まずは茶碗(A)。この中へ抹茶と湯を注ぎ、抹茶を点てるのだが、そこに欠かせないのが茶筅(C)。1本の竹を16〜120に割って造られる繊細な道具だ。抹茶を入れておく「棗(E)」も漆塗りなど匠の技が用いられているものが多い。 ...